[三等車の乗り心地を試してみようとした男の足に、嗅覚が急制動をかけた。
肉体労働者の筋肉の壁は、あの戦争で祖国が越えることの適わなかった要塞線のように、男の歩みを阻んだ。
――人いきれ、という表現さえも、上品に過ぎる。
ほとばしる汗が染み、垢じみた作業着から漂う匂い。あるいは、饐えたアルコールの臭気。
品のいい淑女なら一呼吸で失神してもおかしくないほどの空気が、もはや質量さえ有するかのように、かれの前に立ちはだかっていた]
……う、む……しかし、故国のためにも……いや、だがこれは……、
[誰にとって幸いだったものか。男が迷っている間に、ニズの駅への到着を知らせるアナウンスが流れて。
どっと飛び出していく三等車の旅客。開いた空間に清冽な夜気が流れ込んで、悪臭を洗い流していく]
……ああ、丁度いい。中継駅の設備も見ておきたいしな。
[ひととおり三等車を眺めてから、駅も見て回ろう。
ああ、駅といえば、あの同郷の財閥令嬢は、従者と再会できたのだろうか。
まあいい、ともかく、いまは早々に三等車内の視察を終えるとしよう。屋外の、うまい空気を味わうためにだ]
(4) 2015/11/30(Mon) 00時頃