109 Soul River
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[まだ、物心つく前のことだ。]
「ヒューバートは、ピアノじゃなくてそっちが良いのね。同じ名前を付けたのに、……彼じゃないのだから仕方がないか」
[母親が、俺に買い与えたおもちゃのピアノ。
押せば音が鳴るものが好きで、最初は確かに飛びついた。
俺の名前は母親の命の恩人からとったものらしい。
部下だと、言っていた。
ただでさえ酷い傷だったのに、国に戻る寸前で、母の盾になったのだと。
退役する母親と、怪我のためにやめざるを得なくなった兵士。
詳しくは語られない母の言葉に、もう少ししてから俺は聞いた。
好きだったのかと。
母は、信頼する兵士だったとだけ、答えた。]
[母を守った後、彼は、ヒューバート・リドリーという兵士は、ほんの少しの時間をおいて、国に帰ることなく死んだのだと、聞いた。
その短い時間に、彼がどんな思いを抱いたのか、「俺」は覚えていた。
まるで見た夢を忘れるように、年を重ねるごとに忘れてしまったけれど。
ただ、もう覚えていないけれど。]
「本当に、物を叩くのが好きなんだから」
[買ってくれたおもちゃのピアノは物置にしまわれた。代わりに、手近な棒で色んな物を叩いて回った。]
なんか、俺が代わりにいっぱい叩きたい感じ。
誰の代わりか、わかんないけどさ
[6歳の誕生日、ジュニアスクールに入る前、祖父母からプレゼントをもらった。
ドラムセット一式。
ピアノを買ってもらったときと同じくらい、*嬉しかったんだ*]
[3つ下の妹が、おもちゃのピアノに飽きた頃、母親は一台のピアノを持ってきた。
古びたアップ・ライトピアノ。
貰ってきたと言うそのピアノは、これまでに何人の弾き手がいたのか、塗装も所々禿げていて。
大事に使われていたのが判るくらいには、音は綺麗なままだった。]
「お兄ちゃんにはドラムがあるでしょ?」
[妹に一度だけ、と言って鍵盤に触れる。
不思議と、指先が馴染む気がした。
運ばれて見ることのなかったピアノの裏。そこに俺の名前が書かれているのを知らない。]
[なぜだか判らないけど、知っているんだ。
「ただいま」
そう、思ってしまった。
もう、あの記憶はないのに。
ヒューバート・リドリーが亡くなって、10年が経ったその日のこと**]
[俺は、近所の人にも「父親に似ている」と言われている。
俺自身、父さんの若い頃の写真を見て、そう思う。
初めて、母親に紅茶を淹れたときのことだった。]
「……淹れ方、誰かに習った?」
[意外そうな表情で、その紅茶を口に運ぶ。
その母親に、]
違うよ、ママの真似。
[そう言ったけれど、蒸らす時間や茶葉の量は、違っていた気もする。]
「髪の色は一緒だけど、時々ね、父さんより似ていると思うときがあるの。
紅茶の味が、一緒。表情の癖も似ているわ」
[言われて、瞬いた。
誰に似ているのかは、もう聞かなくてもわかっていた。
母親が「彼」の話をするときは、いつも表情が優しくなる。
毎年、命日には墓に参って、花を添えて。
少し、羨ましい。
そう言ったら、来年は一緒に行こうかと言われた。]
[妹が寝静まってから、ピアノを弾いた。
もちろん弾けなくて、たまに触って鍵盤を少し叩いてみるだけの、小さな時間。
ドラムと両方やりたいと言ったら、笑われたけれど結局許してもらった。
いつか、大きくなったら。
大人になったら。
今度は、今度は――――?]
待って、母さん、今行く!
[今日は「彼」に会いに行く初めての、*日*]
───。
[扉を閉めた。
廊下を歩き出して暫く、不意にそれは訪れる。
背中にひたと、何かの触れるような感触。
少しばかり、掌に似た柔らかさ。
押し出されるような、つきはなされるような]
[向こう側に、繰り返す記憶。
こちら側には、次の何か。震えている。
楽器そのものの振動のようだ。
身体に伝わって、鈍い痛みの上に、
ひとしずく、ふたしずく、滴り落ちてくる──コバルトブルー]
…、は
[吐き出した息は渇いていて、
口元は幾らか引きつってもいた。
また戻れと──言うのだろうか]
やめろ
[震える。
掌にコバルトブルー]
やめてくれ
[掌から、喉から、溢れ出す。
滴り落ちて、染め上げて]
また繰り返すくらいなら、いっそ
[流体。
溢れて、塗れて、手を伸ばして
───消失する]
[誰にも怯えることの無い孤独を、俺にくれないか]
[言えなかった、ことば]
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