299 さよならバイバイ、じゃあ明日。
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[イナリは世界を渡る空狐である。
渡った先で天寿を全うし死ぬ度に生まれ変わり、力を増す妖。
それがこの胡散臭い拝み屋の狐の正体だ。]
[この街での生は、空狐となってから八度目の生。
次に生まれ変わった時、遂に大願は成就する。
――ただし、生まれ変わって力を得るには条件がある。
殺されたり、不慮の死を迎えてはならない。
そうなれば全てが元の木阿弥、ただの狐からやり直しなのだ。]
[つまり狐はこの街にとってはよそ者、異邦人で。
そうしてどうやらこの街では、異邦人とバレたら追い出されてしまうらしい。]
殺されるよりは万倍マシですけれど。
折角ならこの街で八度目の最期を迎えたいものです。
[狐は案外、この奇妙で雑多な街での暮らしが気に入っているのだった。]
――そう思いませんか、貴方?
[そして狐は、どうやらもう一人だか一匹だかいるらしい、異邦人の気配に向かって語り掛けた**]
[剣闘士ソルフリッツィは、充分に強かった。
真剣を交えて戦い、相手を何度も地に伏せさせてきた。
剣闘士の戦いは過激なものだった。
皮膚も裂け骨も折れ立てなくなると負ける。
時にはそのまま命を失う闘士もいたほどだ。]
[剣闘士ソルフリッツィは、勝ち続けてきた。
自らの剣で沈む闘士を何人も見下ろしてきた。
多くの歓声に包まれ、闘技場の中央に立っていた。
剣闘士ソルフリッツィは、敗北を知らなかった。]
[ソルフリッツィは常勝の闘士だった。
故に、勝利を願われ、期待され続けた。
否、すでに勝利を確信し、願いすらしないものもいた。
ソルフリッツィは勝つ。
それは、民衆にとっては当然で、ソルフリッツィにとっては恐怖だった。]
[常勝の闘士は、負けたものがどうなるかを、その目に一番多く見続けてきた。
ほんの僅かの隙、勝つことの重責に潰れた瞬間に、自身の居場所がそちらになるという幻を何度も見てきた。
震えるほどの恐怖だった。
勝利の褒美で、ソルフリッツィは鎧を整え続けた。
装甲を厚く、並の剣では貫けぬようにした。
剣闘士としての戦いに防具を持ち出すことに異を唱えるものもいなくはなかったが、鎧さえ突き通して勝つのが真の剣士真の闘士と呼ばれ、戦いはいっそう湧き上がった。
ソルフリッツィは鎧ばかりを整えて剣はいつもぴんぴんに研ぐ程度であったので、なれば鎧を貫きさえすればと鋭く強い剣を携える闘士が増え、刀工も技を競いはじめ、それはそれは盛り上がった。
しかしソルフリッツィにとってはそれすらどうでもいいことだった。
ただ負けられなかった。死にたくなかった。]
[やがて、最強の鎧と最強の剣を突き合わせて、鎧が負ける日が来た。
腹のあたりの鎧の隙間を、突き通すように細剣が貫いた。
それで継ぎ目をこじ開けるようにして、広がった隙間に刃の広い短剣が勢い良く振り下ろされた。
――ああ、ついに死ぬのだと思った。
安堵と深い恐怖の混じった、強い感情が頭の中を塗りつぶして、時が止まったように硬直していた。]
[理由はわからない。何が起きたのかも知らない。
気付けばこの街にいた。目覚めたのは自宅の中で、街人たちはまるで昔からここにいた住人のようにソルフリッツィのことを扱った。
ソルフリッツィは戸惑いながらも、ぐるぐると街を見回しては街のことを知り、いつしかそれを仕事のようにしながら、この街で"生きて"いる。]
――そうだな。
出来るなら、この街で。
[イナリのそばを歩きながら、すれ違いざま返事をする。
この街は、毎日ひとり誰か死ぬ。
この街にいればあるいは、ようやく、本当に、震える日々から解放される気がする。]
八度も死にたくは、ないけども。
[すれ違い様零された、八度も死にたくはない、との言葉にくすりと笑う。]
ええ、ええ、そうでしょうとも。
わたくしにとっては、そう、列車を乗り換えるようなものでございますけれども。
[他の方はそうはいきますまい、と頷く。
狐とて、死については他者と認識にズレがあることが多いのはわかっているのだが。つい、妖に寄った考え方をしてしまうのだった。**]
[例えば八度も死ぬ――つまりは八度も生まれたことがある狐なら、多くの死肉を残したりしないだろうか、と過ぎるものの、イナリにいなくなってほしいとも思わないし、死んでいない狐のことを今算用に入れても仕方ない。]
私は一度だって死にたくはない――
[思考が呟きになって零れたが、狐に聞こえたろうか。]
[今はいない人。
もう会えないはずの人。
その人に会うために。ただそれだけのために。
狐は八度目の生に手をかけた。]
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