103 善と悪の果実
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あ。
[咽喉に伸ばした硝子の刃は
女の柔らかい咽喉に触れ、そうして―――…
左胸に空く風穴。
呆気なく崩れ落ちる身体。
指に力を入れ過ぎたか、破片で傷付いた指が、絨毯に血を吸わせ。
みるみる嵩を増す血溜まりに。手が、触れる。]
……ッ! ………ッ!!!
[叫ぼうにも、ごぽ、と咽喉から競り上がる血に遮られ。
ああ。黄金の果実も、くそったれな世界も。
―――男の指から零れ 落ちた。]
[血溜まりで叫ぶ声は、誰に届く筈もない。
女主人の部屋に重なり続ける死体。
烏が残した、秘密の欠片はポケットの中に。
招待客が、果実を目にした場所は何処だった。]
畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生!
[怨嗟を、叫ぶ。
もうこの声は誰に届くかも分からない。
その声がはたと留まったのは。烏の目を、前にして。]
ち、…畜生、畜生、誑かされたんだ、俺は!
あの時、声なんか掛けられなければ―――ッ!
[耳を塞いで、縮む距離に、一歩下がる。
死んでもなお怯える目。恐怖を湛えた目。]
ひ、ッぃ………!
[心臓の在った場所に、ずぐりと指が潜る。
痛みはない。痛みなど感じる筈がないのに
生前と同じ情けない声をあげ、乱暴に、その手を振り払おうとする。
二度と聞きたくなかった、その声。
咽喉を穿っても。この連鎖を断ち切ることなど出来ないようだ。]
こんな、場所が"楽園"である、筈がない!
あああああ………此処は、此処は、
[周囲を見回す。
果実に囚われた男の顔、女の顔、生きた顔、死んだ顔。
この手で殺した顔が、此処にある。此処は。]
やめろ!
[怨嗟と焦燥の叫びは、濡羽色に向けた。
生者と死者の絶対の境。届くはずも、ない。
離れる影はいくつ在ろう。
果実の行方、結末が気になれど、烏の後ろを付いて回る
勇気が男に在るはずもない。
今はまだ、この部屋に留まるひとつの*残滓*]
[少女の悲痛な叫びと涙は
目の前に迫り来る切先に気を取られた私には届かず。
引き金は呆気なく引かれた。
あの時と同じように。
私が初めて人を殺した、あの時と同じ軽さで。
立ちはだかるは、男。
私の唄を奪った。私の唄を奪おうとする。
突き付けられた切っ先は正確に咽喉を狙って。
バランスを崩して大きく傾いた視界では、銃弾の向かった先は確認できなかった。
肉を裂く感触と、焼けるような痛みがぞぶりと深く首に滑り込むのを感じる。神経に食い込む刃に、背筋が強張る。
嫌 嫌 嫌 嫌
もうやめて。痛い事をしないで!]
―――――――っ、……!
[咽喉からは、空気と、それに絡むような熱い液体が漏れ出すのみ―――]
[意識が何処にあるのか分からぬ狭間の時。
ナイフを持った少女が近付いて来る。
血に塗れた私に、いつもと変わらぬ調子で名前を呼ぶ声。
嗚呼………彼女は既に、壊れていたのだ。
まだ血の抜け切らぬ抜け殻にナイフが振り下ろされる。
何かを否定するかのように。駄々を捏ねるように。
黙した栄光はただ静かにそこに在るのみ。
抜け殻へと狂気を刻み付けた少女は、赤い手を隠そうともせず何を*思う?*]
[濡羽色から贈られた唄が聴こえる。
それは、既に質量を持たないはずの胸に幽かな温もりと郷愁を灯して、消えた。]
[狂気と怨嗟を唄う果実。
それに惹き寄せられ、飲み込まれた数多の人間。
その世界に引き込まれてしまった以上、
魂が安息を得る事は無いのだろう。
唄を失った女は、人を狂わせる唄を囁く
化物の一部に成るしか無いのだろうか。
魂は救われず、過去には戻れない。
とうとう手を伸ばすことが叶わなかった
禁断の果実を手にした者を、幸せにはさせないと。
堕ちろ、と。
仄暗い感情が芽生えていることを、
女は否定したがるだろうか。]
[壊れたようにわらう少年の声が遠く聞こえる。
再び相見えるは、生前の少年と同じ聡明な姿。
――痛いのは、何処?
既に離れた肉体は、ただ、硝子によって与えられた熱を伴う痛みと、ぞっとする感触の残滓を覚えている。
もう生きて喉を震わせることはない。
感触の無い首筋に、そっと手を伸ばす。
困ったような様子の少年に、苦笑して軽く首を振る。
体温の無いこの姿では、自分の感情を把握する事すら難しい。
少年が『生きている間に』と言えば
既にどちらも器を無くしていることに妙な感慨を覚えた。]
[答える言葉も見つけられないまま、歩き出す少年の後に続こうとする。
……少し進んでから振り向いて、自分が殺した、自分を殺した草臥れた姿を見た。
憐れに怯えて佇むその影を一瞥してから、その場を後にする。
確認しなければ。
皆の魂が捉えられている牢獄。
仮初の楽園。
原罪の象徴の下へ。]
滑稽だねぇ……
何もかもがこうして台無しになっちまうのさ。
そもそも、こうなっちまったのは誰のせい、だい?
[クク……と喉奥で笑う声。]
血を啜って、林檎は赤く熟れるのかしら。
何時になったら、満たされるのでしょうね…?
それとも、永遠に―――
それでまた、グロリア様のお部屋に新しい赤を添えるのですね……?
[優しく、囁きかけるように。]
そら。
その手も、ドレスの裾も、真っ赤だぜェ?
[駆け出す小さな背中に、ケラケラと笑った。]
畜生畜生畜生畜生畜生どもめ、!
[叫ぶような怨嗟の声は、どこから。]
悪いのは、君さ。
[怨念は林檎に手をかけるものへと嘲う。]
唆した“蛇”もかな。
[嘲う、嘲う、烏の声は囀りよりも甘く。]
―果実の在り処・大広間―
おいでよ、ここまで。
[木は森へ、果実は果実へ。
部屋に施された黄金の植物たちのなかに転がる、楽園の実。
その前に、その目の前に、僕は立っている。
怯える彼を残し。
歌姫を連れて。]
…――ね。
皆、愚かなものですよ。
[小さな手を果実へと伸ばす。]
大広間からなくなってなんて、なかったんだ。
すぐ傍に落ちていたのに気付かない。
目先の欲に駆られて、足元なんて見ようとしないんだから。
[そう、歌姫へと声をかけた。
一度掴んだことがあるはずの果実は、擦り抜けて掴めない。]
…………僕も含めて、ですがね。
[少年の行く先は、大広間。
この宴の始まりに、果実があった部屋。]
全く…この部屋を探していた人もいたでしょうに、
こんな簡単な場所に隠していたなんて…
[血眼になって屋敷内を探していた人 ― 自分も含まれるか ― を考えて、苦笑する。]
嗚呼、目の前にあるのに
触れる事すら許されないのですね…
またこの細工を見る事が出来たのは、幸運なのかしら…
[否、囚われているだけだと思っているのだけれど。]
―過去―
[歌い手として評価されるようになって、暫く経った頃。
急に、一切の活動を行わなくなった時期があった。
行方不明になったのだ。
名前に傷が付かぬようにする為か
ひっそりと回された捜索の手にも引っ掛からなかった。
その時女は、今は顔さえ思い出せぬ好事家に監禁されていた。
金糸雀のように、籠に閉じ込められ、所有者の為だけに歌うことを強いられた。
女は歌を愛していたが、自鳴琴のように螺子を巻かれた時にだけ忠実に歌う事を強要される状態に、心をすり減らしていった。
所有者を満足させられなければ暴力を加えられた。
『歌えない』とでも言おうものなら、本当に二度と歌えなくなるぞと
水の中に頭を押し込まれたり、首を絞められたりもした。
そうして死なないために渋々歌うと、最初の内、所有者は上手く躾を出来たと言わんばかりに満足そうにしていた。]
[そんな日々が続いていたのだが。
とうとう限界が来た。
無理矢理歌わせられた、その歌声が素晴らしいものに成るはずも無く。
何時しか、歌は苦痛となり、本当に歌えなくなってしまった。
弱った金糸雀を、壊さんばかりに痛めつける所有者。
『――この程度か。つまらないな。』
ある日、すっかり飽きた所有者は、とうとう金糸雀を撃ち殺してしまおうと考えた。
にやにやと拳銃を片手に近寄ってきて、髪を掴まれ、喉元に銃口を突き付けられる。
抵抗などしないと思って油断していたのだろう。
本物の死を目前にした女は、ただ生き延びたい一心で所有者に反撃する事に成功した。
襲い掛かり、拳銃を奪って、心臓に押し当てて、撃った。
破裂音が響いて、血が飛び、やがて所有者は動かなくなった。]
[逃げなければ―――
煙を吐く拳銃を放り出して、慌てて飛び出した牢獄。
そうして逃げる為に走る廊下で、夕闇に出会ったのだ。
彼が何故その屋敷に居たのかは知らない。
どういう繋がりがあるのかも分からない。
ただ、夕闇は、真っ青な顔をしているであろう女を見て、わらったのだ。
きっと銃声は聞こえていただろう。
殺人を犯した事を、見透かされたに違いない。
恐怖が全身を支配した。
どうしたら良いか分からなくて、只管逃げた。
連れ去られた時には気を失っていたため
ここが何処かすら分からなかったが、少しでも遠くへと必死に走り続けた。]
[やっとの事で逃げ切ると、その後
女は、無意識の内に記憶に蓋をした。
歌えない理由
受けた暴力の数々
そして、自分が人間を殺したという事
これらを忘れてしまったがために、結局原因は分からないまま、歌声も戻って来なかった。
夕闇と何処で会ったのかを思い出せなかったのは他でも無い。
封印した記憶の欠片だったからだ。
彼が、私の事を殺人者だと知っているはずだから―――
人を殺して思い出した。
これが、女が歌を忘れた経緯。]
灯台下暗し、ってやつですかね。
[触れられない林檎。
それはまるで“禁断”の果実。]
貴女は…。
……いや、野暮なことは聞くものじゃありませんね。
[この林檎を手に入れたかったのか。
手に入れて、どうするつもりだったのか。
そんな言葉が頭を掠めた。
口に出すことはなく、過去を回想する横顔を見つめる。]
……………。
[それでもひとつ。]
歌を、聴かせてもらえませんか?
[そんな我侭を言う事は許されるだろうか。]
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