191 忘却の箱
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─回想/廊下・角を曲がる前─
[「まだ咲いてない…咲き切っていない」
雪のように透ける髪。薔薇を手に宿した女性の声
言い聞かせるように何度も馴染ませる。けれど歩を進める毎にその声が、持ち主の顔が朧気に溶けていく。]
──…寒。
[床に零した独り言。
リノリウムの床は酷く無機質に映って。
やがて気付けば寄り掛かるように医師に身体を預けていた
控えめな声がかかるまで]*
─回想/廊下・角を曲がる前─
[顎を下げるようにして振り返った視線の先。
見たことのない顔だと思った。
だが、それは記憶が薄れ覚えていないだけなのかもしれないとも考えた。
だから結局、“あんた”と呼んだのだっけ。
使い古した、それも片方だけのスリッパを手渡したとしてどうするのだ。自分でそう思いながらも、もう片方を自力で脱ぎ捨てる気力も無かった。
だから、「もらう」と、スリッパ片手に受け取ってくれた相手には、申し訳ないような、有難いような、曖昧な笑みを向けたかもしれない。
それも角を曲がるまでの話だけれど。]
(……いつか、捨てられるのかな。)
[自身の記憶さえ曖昧な自分。
託した履物が彼に合っていたなんて、知らず。
埃や灰などは被っていない筈だけれど、あまりに自分に合わないものなら…もしかすると。]
(それでも…少しくらい、誰かに。)
[──忘れないで貰いたい。
角を曲がる前。脳裏に浮かんだ花々。舌に滲むにがい味。緑のお化けは黒い記憶の海へと散っていく。
疑いもせずに奥底へと消えていく。*]
─回想・彼と花と青年と─
[意識の途切れ目。慟哭。
身体を糸を切ったように動かない。
それでも背に肩に、腹に。小さなむず痒さを覚える。]
(…あったかい。)
[身体は酷く冷えていた。喉もカラカラに渇いていた。
だから上から降り注ぐ雨粒は酷く穏やかに身体を潤し。
花々は喜ぶように種を植え付けては、根を下ろし、蕾を付ける。]
[蕾はゆっくりと音もなく、けれど待つことなく開花し始める。
匂いは濃くなり、意識は薄く霞む。
布の奥での出来事。
秘め事のように秘めやかに行われている行為。水を失いつつある身体。ふと見下ろした自分の腕。
一瞬のことであったけれど。それは、枯れ木のようにかさついて映った。
喧騒。悲鳴。誰かの声。
誰が誰かなんて分からない。
頭に綴られた文字は皮肉にも。
花の糧となり、ただただ滲ませては消えていくだけ。
それは黄色い果肉から零れる蜜のように甘い──…落ちる笑み*]
─回想・喧騒の後─
[声が聞こえた
誰のものかは正確には分からない。
ふわり。
空色の花は少し考える素振りを見せて。
やがて、一つのことを思い出す。]
(ああ、…死にはしないってそういうこと。)
[水彩具のような、どこか抽象的に告げられた言葉
「死にはしない」のなら、意識はあるのだろうか。
あの時感じた疑問の答えを、知ってしまった。]
(…まるで御伽噺。)
[身体はとうに生体として機能を失いつつあるのに。
こんなにも意識ははっきりと覚醒している。]
─回想/喧騒の後・自室─
[揺れるまま、医師に連れられて自分が使っていたという部屋へと戻る。
横たえられたのはベッドの上。
清潔な白いシーツ。ぬいぐるみも本も何も飾られていない質素な部屋。
ある一点、赤いギターを除けば。]
(…ああ、あの人は嘘つきだ。)
[医師が鳴らすギターの音。すっかり酸化が進んだ6本の弦は黒く錆びていて。響く音は近頃触れていなかったことを示す外れた音色。
どれほど触れていなかったのか。
そのことを今になって知る。
“久しぶり”なんてきっと無かった。]
──……。
[何故嘘を吐いたのだろう。
その問いは尋ねなくとも体内を覆う花弁が邪魔をする。喉元まで広がる蜜の味。苦しい。そんな気もしたけれど、ゆっくりと、ゆっくりと─…]
[喜びが 哀しみが 怒りが 苦しみが 楽しみが 愛しさが …花が 散る]
…おれを…、わすれ、…な…で、
[赤
視界に入れたのなら。
唇に花が芽吹いてしまうその一瞬。
やっと花の名の 意味を知る。
誰かとは問わず囁いた聲は、きっと。*ただ花を揺らしただけ*]
─自室─
[体内を満たす花。
思い出という蔦で絡められた身体は、ただただ夢を見続ける。
腕に咲いた白い花。
赤い味を付ける林檎の芽は、柔らかな陽射し。 はらり、と。ページを捲る。]
(…どうして、あんなことを呟いたんだろう。)
[「仲、いーなぁ…」いつも朗らかでたまに歌を聞かせてくれる蜂蜜色の人。親しげに名を呼んでくれては少し話したのだっけ。
そんな彼女が零した呟き
気掛かりになって尋ねようとすれば、姿を見つけることが出来なくて。
いずれ、今度聞こう。そう思っていた。
小さな疑問の調べ。 浮かんでは、消える。
淡い花の香りが何処からともなく窓から吹き渡るのと同じように、微かな匂いを漂わせながら*]
─回想・勿忘草─
[世界に蔓延する病──勿忘草病。
自身がそう宣告されたのは、念願叶った舞台での演奏の一週間程前だった。
まさか自分が?
診察室の中で瞬きを数度。後につり上がる唇は疑問を投げかける。]
『冗談だろ?』
[手首に腕時計。指し示す時刻はカチコチと正常に時を刻んでいるというのに。
──カチリ。
重なる秒針と、長針。
完成されたパズルがばらばらと崩れる音を遠くで聞いた。]
[問いかけに対して医師はどう答えたか。
あまり覚えていないのは心に与えた衝撃が大きかったせい。
自身の容態は男が望む望まないにしろ、家族に伝えられた。
膝を折る母。机に肘を立て顔を逸らす父。状況が飲み込めずただ顔を歪めて泣きじゃくる幼い妹。
何と声をかければいいのだろう。
誰に問えばいいのだろう。
答えは何処からも、誰からも伝えられることなく。
ただ止まぬ歯の音を止めるために、唇に噛み付くしか出来なかった。]
[──それから。
友に連絡をした。
皆最初は信じなかった。冗談だと乾いた声で笑っていた。
だが、それも鳴り止む。現れたのは沈黙。
肩を揺さぶられる。
嘘 冗談 やめてくれ 否定を
望む声が頭の中で反響する。
滲む視界。張り付いた喉から発せられた言葉。]
『こんな夢は望んでいない。』
[全ての音が鳴り止んだ。]
[一度散ってしまった花は再び咲くことはない。
地に落ち新たな命を芽吹かせるために眠りにつくだけ。
赤いイヤホンと、ギター。
手紙と写真と、日記。]
『どうか 忘れないで。』
[友と父と母と妹と交わした約束。
だから受け取った。
綴った。日々のことを。
忘れてしまっても、また思い出せるように。]
[だけど、気付いてしまった。
思い出す前の俺と 今の俺。
今の俺は俺ではないのだろうか。
俺は一体誰なのだろうか。
はらり。 紙面に落ちるもの。
花の香りと頬が濡れて。
断線したイヤホンから伝えられる音は、無音。
聞きたくないから聞こえない。
泣きたくないから泣けない。
嘘は真実へ。塗り替えていかれる。
記憶は散る。花は揺れる。
全てを無かったことにしようと。
同じように 肩を揺さぶられてしまうまで。
淡い頂点の花は、記憶を確かに吸い取って。 *瑞々しく揺れていた。*]
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