194 花籠遊里
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旦那様、もう暁の空で御座いますよ。
あれ雀が鳴いておらしゃります。
[同じ褥で眠る男にそう呼びかけて、婀娜の様に声音は何とも態とらしく艶と媚を振り撒いて
琴の音奏でたかつて櫻貝の様だった爪は見る影もなく、栄養不足と睡眠不足でぼろぼろだ
肌の白さは病的な程になり、伸ばしたままの黒髪はもう臀部まで届きそうな程]
それともこのままもう一夜、共になさいますか旦那様。
沢山御奉仕致します故に…ね?
[この身の借金はあとどれ位あるだろうか
雪山の麓の故郷はもうとっくの昔に記憶の彼方へと運ばれて往った
花であった頃などもう昔のこと
今は下賤とも揶揄される様な――熟れ爛れた声音で、仕草で客の男を引き留める様な、そんな夜の住人がそこにはあった]
[他の男娼と違う所と云えば、時折月を眺めた後、視線を御山の向こうへと向け、やがて諦めた様に畳に落とす事だろうか
藤より先にこの界隈に暮らす先輩娼は月に焦がれているのかい?と揶揄し
藤より後にこの界隈にやってきた稚児の様な娼は山向こうにどなたか待つ人がおらしゃるのですか?と尋ね
そのたびどこか儚い笑みで否定するのだ
月を見れば哀しくなるのです
山向こうにはもはや、還る所などありはしませぬ、と*]
ー回想・霧雨の頃ー
[自分が下町のに引き渡された日、空からは霧の様な雨が降っていた
根腐れ間引かれた鏡の花は、乱雑に扱われるであろう今後を予期していた
ぱたりぱたりと頬に当たる雨。傘など与えられず藤色の着物は濡れぼそる。だがそれは丁度良かったやもしれぬとひとりごちる
今なら泣いても、誰も涙と思うまい
雨が頬を流れただけだと思うだろうと
嗚呼でも今夜まで降り続くなら
今日は月は見えそうにない]
―いつの日かの霧雨の日ー
[霧雨は嫌いだ。下町のこの娼館に引き取られた日の事を思い出すから
何時もの様に客に奉仕を終えれば気だるい身体を叱咤して、客に愛想を振りまいて]
旦那様、もう褥を仕舞うお時間でございます。
[客に旦那様と呼べと躾けられたのはここに来てすぐだった。一夜に何人も、なんてこともあるし覚えて居られないだろうからそれで統一しろと主から云われたのだ
上等な藤の着物はくたびれこそはしないが昨夜は乱雑に肌蹴られ追い遣られた為皺になってしまっているだろうか]
旦那様、旦那様。
[強請る様に口吸い交わし、またのお越しをお待ちしておりますとうっとりした笑みを見せる。心にもない笑みを
そうして得たいくばくかの賃金は、全てこの身に課せられた借金へ充てられてゆく
ああ、でも霧雨で好きな事がたった1つある
だって霧雨の日の夜は
月が、見えないから]
―回想・地下―
[藤の花には「お前はお前自身の言葉を持っていない」と言った。
昨日の彼の言葉は果たして彼の言葉だろうか。そんな訳がない。
しかし、盲信するのは簡単だ。
何故と問いかける隙も無視して、向かうのは扉のまた向こう。*]
ーとある日ー
[今日は十五夜と禿の子が告げる。はしゃぐ子を先達は叱りとばすも楽しみなのは皆一緒らしい
琴は爪弾かねど酷使で小指の爪先が欠けた手を眺めながら溜息ひとつ。紫も見なよと誘われるも辞して障子を閉めればぎゅっと部屋の隅で丸まった
満月は全てを見通すかのようで、怖いとばかりに
そういえば此方に来てから髪の飾り紐の色の名で呼ばれることが増えた。大抵は紫だが偶に藤と呼ばれることもある。その際胸によぎった痛みは無視して淡く微笑み浮かべるのだ
胸に痛みがよぎる度に思い出すのは花々
枯れぬ櫻、霧雨濡れる淡藤、灼熱の柘榴、そして――]
……
[心の虚には見ないふりをして
そっと 夢の中へと旅立った]
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